焦燥と傷、死

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時にどうしようもなく腹が立つことがある。

 

自身の努力不足を他人の責任とする瞬間、いわゆる他責思考を目の当たりにした時である。

 

私はどうしても受け入れられない。なぜ、他人のせいにするのだろうか。人として如何なのだろうか。

 

問うてはみたものの、その理由はおよそ自身は悪くない、自身は十分頑張っているという過剰な驕りであろう。

 

 

全人類は他責思考であるべきではないというのが私の信条ではあるが、他責思考の解き方については、巷に転がっているビジネス書に書かれているため割愛する。

 

 

また、人としての価値観の話と同時に、他責思考は自己の成長にとって、クリティカルな障害と言えるのは間違いではないだろう。

 

 

 

他方、「雨が降っても自己責任」という言葉がある。

 

なんと素晴らしい言葉だろうか。感涙するほどのストイックさを感じる。

 

そしてその言葉をモットーとする者が、世の中にはいる。焦燥とも言えるほどの成長欲求を持つ者である。

 

少しでも休むと激しい自己嫌悪に襲われる。丁度マグロが泳ぎ続けなければ息が出来ないように、彼らは成長を感じられないと死んでしまうのだ。

 

実のところ、私もその類の人間である。

 

だからこそ、理解している。

一見、賞賛されるべきその性は、自身を殺し得る諸刃の剣であることを。

 

だからこそ、その性を持つ我々は走らなければ、走り続けなければならない。

自らの性で、その逆刃で、切り裂かれたとしても、我々は血を流しながら走り続けなければ、傷口に清潔な酸素を注ぎ続けなければならない。そうして傷口を塞ぐことでしか、生き続けられないのだから。

 

 

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喪失告発1

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私が私自身の誇りを失ってしまったあの日の空は、この世の全てを無機質に感じさせるような曇り空だった。

 

いや「失ってしまった」は、「あたかも偶然失った」「他人のせいで失った」といったニュアンスを含むものであり、誤解を生む卑怯な表現だ。こんな匿名の殴り書きにすら保身に求める、私の性が映し出されたものだ。
 
そして今尚、自身を批判することで自身の最低限の正当性を担保しようとしている。意地汚い私の性である。
 
こんな性質だからこそ誇りを、失ってはならない誇りを自身で失わせることになったのだ。
 
 
要するに誇りを失った責任の所在は私以外に他ならなかった。
 
若輩ではあるが、経営コンサルタントらしく結論から申し上げる。
 
私はプライドに拘るあまり、自身の誇りであった大切な人を失ったのだ。
 
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